主の昇天(祭)

2021年5月21日 B年 主の昇天(祭)

マルコによる福音書 16章15~20節

それから、イエスは[11人の弟子に現れて]言われた。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

「主の昇天」は、他の奥義に比べると理解しにくい奥義かも知れません。主の昇天は、「体をもって復活したイエスが、もはや死ぬことのない新しい命を生きておられる」ということを意味します。復活されたイエスは、今は地上にではなく、父なる神の右の座に着いておられ、今も生きておられる、それがイエス昇天の重要な意味なのです。

 まずは、今日読まれる使徒言行録の一部をここに引用しておきたいと思います。

……さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1・6-11)

ここでの弟子たちの次の質問は、注目に値します。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。イスラエルのために国を建て直す……それは、旧約で預言されていた救い主到来の時に実現される救いの約束です。人々は、救い主の出現によって外国の支配から解放される、そういう救いを待ち望んでいました。ですので、復活されたイエスこそ真のメシア、この方ならイスラエルの国を再興することがお出来になると、弟子たちが期待していたとしても、それは何も不思議なことではなかったのです。

 しかしイエスは、復活の前に、このような期待に対して次のように答えています。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(1・7)。イエスは、それが今すぐに実現するだろうという期待を否定します。救いの完成の時は、父なる神がお決めになることであり、それを今すぐ、間もなく、と安易に考えるべきではないのです。そこには、イエスの復活が、そのまま単純に神の救いの完成とイコールの関係で結ばれているわけではないということが暗示されています。神の救いのみ業は、まだ継続しており、その先があるということです。弟子たちは、イエスの復活によって救いの完成の時が訪れたと思っていました。しかし彼らは、この先もなお道を歩み続けてゆかなければならなかったのです。

弟子たちに与えられているこの先の道、すなわち私たちがなおも歩み続けていかなければならない先の道とはどのようなものなのでしょうか。それは、イエスによって使命を与えられ、遣わされてゆく道です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われているように、そこで与えられる使命とは、イエスの証人としての歩みです。イエスを宣べ伝え、イエスによって父なる神が成し遂げて下さった救いのみ業を証しするために、弟子たちは派遣されてゆくのです。

これは、弟子たちが期待していた事とはかなり違うものでした。弟子たちはイエスの復活によって、イスラエルの王国が目に見える仕方で確立すると考えていました。詰まるところ弟子たちの思い描く救いの完成とは、「イスラエルのための国の再興」だったのです。彼らの思いの中では、救いの範囲はユダヤ人に限定されていました。しかし、イエスは、彼らが聖霊の力を受けて、「エルサレムばかりでなく、地の果てに至るまで、あなた方はわたしの証人となる」と語っています。これは、ユダヤ人という狭い民族意識を越えて、全世界の人々にも福音が宣べ伝えられ、彼らも神の民に加えられていくことを意味します。

イエスが望まれたのは、イエスを宣べ伝える人々によって、イエスを信じる共同体、すなわち「教会」が誕生することだったのです。イエスによって打ち立てられた新しい神の民、それが教会です。その教会の上に聖霊が働きました。ですから、イエスの復活によってまず実現したのは、教会の誕生とその歩みなのです。そして、弟子たちが使徒として、イエスの証人として派遣されていくことそれ自体が、イスラエルのための国の建て直しなのです。弟子たちは当初、復活なさったイエスがそれをなさると思っていました。しかし、イエスは弟子たちにその使命を委ねたのでした。事実、使徒言行録は、聖霊降臨の出来事を通してイエスを信じる人々が、聖霊の助けによって力を受け、地の果てまで福音を宣べ伝えるに至った事を記録しています。教会は、このようにして異邦人を巻き込みつつ、全世界に広まっていくことになるのです。

イエスはまた、迫害においても教会が発展していくことを前もって語られました。しかし、このイエスの言葉には前提となっていることがあります。それは、この弟子たちの歩みにおいて、イエスが目に見える姿では「共におられない」という事実です。それでは、「いつも、あなた方と共にいる」というイエスの約束はどうなったのでしょうか。

これまでは、弟子たちの目の前におられ、必要に応じて助言を与えられたイエスでした。しかしこれからは彼らの前からいなくなります。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。これは、ただ天に上げられたと言っているのではありません。「彼らが見ているうちに」、「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。「見る」とか「目」という言葉を用いつつ昇天を語っていることが大切です。それは、イエスが去り、目に見えない存在になることを意味しているからです。

それは弟子たちにとって大変心細く不安なことに違いありません。今までのようにイエスが直接的に指揮を取ってくれるわけではないのです。これからは自分たちが力を受けて、イエスの証人として遣わされるのです。しかし、証人とは、現に目の前にいる人のことを証言するのではなく、今そこにいない人の言葉や行いの全てを証しするからこそ証人なのです。ですから、弟子たちがイエスの証人として遣わされるということは、その時点ですでにイエスが共におられないことを前提として語られているのです。

けれどもそこに、聖霊が降るのです。その聖霊が彼らを力付け、全世界へと遣わしていくのです。こうして時代は、弟子たちによって福音が証しされていく時代へと変わってゆきます。教会はそのようにして生まれ、成長してきました。これによって、神の約束が実現されてゆくのです。その教会こそ、まさに新しい神の民です。再興されたイスラエルとは、イエスが弟子たちの目の前から去って行かれ、聖霊の働きによって生まれる新しい共同体のことです。この教会において、イエスの救いのみ業は前進してゆきます。私たちはその只中にいるのです。

イエスはもはや死ぬことのない方として復活し、目に見える姿をもって弟子たちに表われました。もしイエスがそのままであれば、二千年後の私たちも、復活されたイエスをこの目で見ることができたでしょう。しかし、今私たちは、復活されたイエスの姿をこの目で見たり、手で触れたりすることはできません。それは、イエスが二千年前の方だからではなく、イエスが昇天されたからなのです。イエスは復活後まもなく、この地上を去り、目に見えない方となられました。だからこそ私たちも、イエスの姿をこの目で見ることが出来ないのです。しかし、イエスの姿を見ることができないと嘆くのは間違いです。それによってこそ聖霊が弟子たちに降り、力を与え、そして今の私たちにも働いて救いのみ業を前進させているからです。

教会の歴史は、このイエスの姿が見えなくなったところから始まったのです。そこに聖霊が降ったことにより、見ずして信じる信仰が生まれ、神の力が豊かに働くのです。ですから、イエスの昇天は“救いのみ業の前進”であり、神のみ業の前進のための欠くことのできない前提なのです。

天に昇られたイエスは、再び来られると約束されました。その時、全てのことが明らかされ、神の救いも完成するでしょう。今私たちはイエスの姿をこの目で見ることはできません。しかし、この地上においては隠されているその神秘は、いつか私たちが聖霊の助けを受けて、しっかりと見ることになる救い完成の約束です。そこで、イエスの昇天を目撃し、これに励まされた弟子たちの姿は大いに参考になります。

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

私たちの生きるべき信仰は、目に見えるイエスの姿を見て喜ぶ信仰ではなく、見えないイエスを信頼して働きながら、私のうちに確かに働くイエスの御業の現実を知り、喜ぶ信仰なのです。

(by, The Spirit of EMET)

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