聖霊降臨(祭)

2021年5月21日 B年 聖霊降臨の主日(祭)

ヨハネによる福音書 15章26~27、16章12~15節

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


 聖霊降臨の出来事、それは教会の誕生日です。今日をもって復活節は終わりますが、私たちの信仰生活にとって、教会がどのように誕生したのかということについて思い起こすことは、大変重要なことであると思います。今日は、福音の前に第一朗読を黙想することで、教会の誕生について深めてまいりましょう。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した(使徒2:1~4)。

 「突然」とか「天から」という言葉は、この出来事全体が、人間の計画によってではなく、神によって始まったことを現わしています。イエスなき後、ペトロや使徒たちの働きによって教会が成立したのではなく、神の介入によって、人間が全く予期しない形で教会は始まったのです。ルカは、そのことを忘れずに心に止めて欲しいという願いを込めて使徒言行録を書いています。

 また、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」というのは、聖霊によって与えられる天からの賜物を指しています。ユダヤ人のために、エルサレムのために、自分たちの国家再建ということを考えてエルサレムに集まった、これらの人々がそこで気づかされたのは、神がユダヤ人と異邦人の壁を超えて、外へ向かおうとしているということでした。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」。これが当時の人々が見た最初の教会の姿なのです。

 使徒言行録には、「聖霊に満たされる」という表現が繰り返し出てきますが、ここで思い起こさなくてはならないのは、教会の誕生と同時に、多くの人々が聖霊に満たされたという事実です。それは私たちにも約束されている恵みであり、今も続いている出来事です。しかし、ここで勘違いしてはならないのは、その恵みは常に自分のためのものではないということです。むしろ、聖霊による満たしは、この「私」という壁を越えるために必要な助けとして与えられているのです。人間が築くありとあらゆる隔ての壁を、私たちが越えてゆく時、聖霊の恵みは、宣教という形で実を結ぶのです。

 ですから、教会を単なる人間の集まりとして考えてはいけません。そうであれば、教会は人間の要求に応えるだけの集団になります。それは、自分の必要が満たされているかどうかを中心にする集団、自分にとって居心地の良い理想だけを追求する集団です。もし、教会の信仰がそのようなものであったなら、教会は2000年もの間存続し得なかったことでしょう。私たちの教会が今ここにあるのは、それが、いかなる隔ての壁をも越えてやって来られる主ご自身によって建てられたからです。この事を私たちは、今日改めて心に刻みたいと思います。聖霊降臨の出来事によって教会が誕生した以上、教会もまた、イエスを通して神が成し遂げた救いの御業の一部なのです。

 さて、ここで同じルカが書いた福音書の記述にも目を向けておきたいと思います。ルカは、イエスが天に上げられた時、弟子たちが「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」ことを記録しています(ルカ24:52-53)。弟子たちがこの時、大喜びだったとは、どういう意味なのでしょうか。おそらく、弟子たちにとって主の昇天の出来事は、イエスが遠くに離れ去ってしまう体験ではなく、むしろイエスが天に上げられたことによって、天そのものがより身近なものに感じられる体験だったのでしょう。実際、イエスは天に上げられる直前、次のことを弟子たちに約束されました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。イエスは天に上げられる時も、弟子たちに「父が約束されたもの」を送ると約束することを通して、彼らの不安を取り除き、いつも共におられる方であることを示したのでした。

 しかしながら、それでもイエスは確かに天に上る必要があったのです。ここでいよいよ、今日の福音箇所で言われていることの意味が明らかになります。イエスがそれでも天に上られたのは、つまるところ、「 言っておきたいことは、まだたくさんあっても、今の弟子たちには理解することが出来なかったから」です。弟子たちは、聖霊が降るまでは、都にとどまっていなければなりませんでした。いや、むしろ留まらざるを得なかったのかもしれません。事の経緯から言っても、自分たちの主である方を十字架につけた都市エルサレムで、彼らは一体何が出来たことでしょう。主が復活したということは、当時においてもごく少数の人しか目撃していない出来事でしたから、下手をすれば、弟子たちには、遺体を無断で持ち出して、復活を吹聴する者という嫌疑で逮捕される危険性すらあったのです。

 このような状況の中で、宣教に繰り出すなどということは、人間的に見るならば、全くもってあり得ないことでした。ですから、聖霊が降ることによって教会が誕生するということは、まさに「高いところからの力で覆われる」体験だったのです。ヨハネはこの聖霊を、弁護者、真理の霊、そして証しの力として描き出します。弁護者であるというのは、この聖霊が、自分たちを訴える罪から私たちを守って下さるからです。真理の霊であるというのは、この聖霊が、イエス・キリストの受肉、十字架の死、復活の出来事の意味を悟らせるからです。そして、証しの力であるというのは、この聖霊が、イエス・キリストのために自分の命をも捧げる覚悟と力を、信じる者の魂に注ぐからです。

 聖霊によって、弟子たちは変えられました。私たちは、誰が一番偉いかと論じ合い、互いに争っていた弟子たち、そして最後には主を見捨てて逃げてしまうあの弟子たちの姿を知っています。そのような弟子たちは、上からの力に覆われる体験なしには、決して福音を証しする宣教者にはなれなかったでしょう。しかし、イエスの十字架と復活の経験を経る中で、自らの貧しさを知り、ゆるしと助けを待ち望むよう導かれた弟子たちの上には、とうとうこれまでのことの全ての意味を悟る聖霊が豊かに注がれました。この聖霊によって彼らはついに、教会の土台を据えるまでに、自分を大きく越えてゆくことが出来たのです。

 このような弟子たちの歩みを踏まえるならば、教会の宣教において大切なのは、それが主の証しになっているかどうかということです。証しの霊である聖霊に従順であるならば、私たちの弱さをも含めた全てが、神のために用いられてゆくことでしょう。なぜなら、父と子から出た霊は、私たちに働きかけることを通して、必ず父なる神に栄光を帰すからです。その時、聖霊は私たちの弱さを補って余りあるほどに善き弁護者です。私たちのほんの僅かな奉仕、不完全な行いであっても、その真心を受け取って下さる聖霊は、それを大いなる御業のために用いて下さるのです。

 しかしながら、もし私たちが聖霊の働きに心を向けず、自分の計画に沿って教会を動かそうとするならば、それがどれほど立派な宣教計画であったとしても、教会の宣教にはならないのです。人間の自力は、常に地上にその報いを求めるものです。私たちは頑張れば頑張るほどに、「これだけ頑張ったのだから、これくらいの報いがあって当然だ」と思い込みます。そして、主が与える十字架に憤慨し、本当に大切なところで主に従いきれなくなるのです。

 一番大切なことは、私たちが何をするかではなく、どう生きるかということです。問われているのは、どれほどの成果を出すかということではなく、どれほど主に仕えたかということなのです。教会の宣教とは、このような全身全霊での神への献身によって初めてなされるものであって、それがないのであれば、宣教は、主が復活したという情報、十字架の意味という情報、イエス・キリストについての情報を伝えるだけの、中身のないものになってしまいます。全身全霊で主に仕えるために、自分の全てを通して主を証しし、福音を伝えるために、私たちにはどうしても聖霊の助けが必要です。聖霊だけが、神にのみ報いを求め、ただ神にだけ栄光を帰す、真の献身を引き出します。聖霊に満たされるならば、私たちの福音を生きるその姿そのものが、キリストを証しする宣教となることでしょう。

 聖霊降臨の恵みをにより誕生した教会共同体は、自らの危険をも顧みず、宣教へと派遣されてゆきました。神の御業が先行している限り、私たちに求められていることは、ただそれを信じてついて行くことだけです。私たちは、ただ素直に神の御業の器になる時にだけ、真実の証しを立てることが出来るからです。そして、そのような証しは、連綿と途切れることなく2000年以上も続き、とうとうこの日本の私たちにも届きました。そして今日私たちは、「あなたもそのような者となりなさい」という復活の主からの呼びかけを聞いています。

The Art of the Spirit


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