年間第21主日(B)

2021年8月22日 B年 年間第21主日

ヨハネによる福音書 6章60~69節

 〔そのとき、〕弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 神学校に入る時には、何よりも、自分に与えられたこの信仰を人々に伝える働きをしたい、という思いを強く持って入学しました。それは私と一緒に入った同級生たちも同じでした。それぞれが信仰の恵みを、自分なりに世に伝えていきたいという強い思いを持っていたことを思い出します。その分、個性の強いメンバーばかりで、入学当初は、信仰体験やこれからどのような働きをしたいか、などということを熱心に語り合うこともありましたが、段々と個性の違いにぶつかることも生じてきました。そのため、ある時からお互いにそれぞれの道を行こうと、相手の込み入ったことには触れないようにするのが暗黙の了解となり、そのうち一人辞め、二人辞め、この学年は神学院を離れていく者がひときわ多い学年となってゆきました。

 私自身も、教会への司牧実習が始まる頃になると、当初の理想とは違った、予想外の現実を見せられ、さらに自分自身の思わぬ弱さや課題に直面させられ、召命の危機を経験することもありました。振り返ると、最初に抱いていた、「自分が最も苦しいときに救われたからこそ、自分の存在が根底から支えられ、全てを新たな希望へと変えるこの恵みを世に伝えていきたい」という召命に対する思いは純粋なものだったと思い出します。しかし、現実の神学生同士の関わりや、教会で目にする人間関係や共同体の営みは、時に世間で広く行き渡っている悩みや課題と全く共通するものでありました。そのことに、期待外れと思わされたり、自分の召命はここではないのではないか、と悩み出したりしたのです。

 しかし、今ではそのような理想通りにいかない思わぬ現実の中にこそ、神の導きがあることを実感するようになっています。むしろ、期待と裏腹の現実にあいながらも、自分の思いを脇に置き、そのとき与えられた神の望みを一つ一つ受け止めていくこと、そのことにこそ、真の信仰の実りが実現するのではないかと思うようになったのです。なぜならば、私たちの小さな思い、能力からしたら、神の思い、力は計り知れない大きなものであり、神はしばしば私たちには思いもよらない導きを準備して下さっているからです。

 今日の福音箇所の出来事も、イエスの示された救いの核心が、人々の期待を大きく裏切るものであったことが浮き彫りにされる場面です。今日の箇所の前のところで、イエスは人々に「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(6:51)と告げ知らせました。それはイエスが私たちの救いのために天から下り、私たちを生かすために、自らが食べられるものとなった、その生涯を表わしています。それは、命のパンとして、イエスが最後の晩餐で定められた聖体の秘跡を指し示すものです。だから続けてイエスはこうも仰ったのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりに復活させる。」(6:54)

 ところが人々にはその言葉が、大きく期待外れなものとなったのです。人々が求めたのは、具体的な食べ物であるパンであり、またはっきりと目に見えるしるし、効能であったからです。そのような期待を抱いていた人々にとって、イエスの、「わたしの肉を食べなさい、それによって生きなさい」との言葉は、全く理解できない話でありました。

「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(6:60)

 それまで、イエスの奇跡に期待し、イエスのみ言葉に力強い救いを読み取っていた弟子たちが、イエスの核心的な救いの言葉に、つまずいてしまうことになりました。それはつまるところ、イエスに期待したことが、自分自身の飢えが満たされ、自分自身の不足が補われること、そのことに終始していたからです。しかし、それはあくまでも自分自身の望みであり、神の私たちに対する思いとは全く異なるものであったのです。

 神の私たちに対する望みは、このイエスを通して、神のもとへと近づいていくこと、すなわち、イエスのからだを頂くことを通して、神のいのちに与ることでありました。それは、私たちを生かすために、私たちに食べられる者となって、自らが砕かれていく全き愛であるイエスの生涯に、今度は私たちが倣っていくことに他ならないのです。そのことは人々がイエスに期待した、自分たちの飢え渇きを満たし、不自由を立ちどころに解き放っていく奇跡的なしるしとは大きく異なるものでした。人々はイエスの言葉から、不可解ながらもそのことを感じ取り、憤りを覚えながら離れていったのだと思われます。そして、イエスのもとに残されたのは、十二人の弟子たちだけになりました。

 実際、今日の箇所はヨハネ福音書の中でも、場面が急展開していく劇的な箇所です。それまで多くの人々がイエスのもとに殺到し、救いを目の当たりにしていたところから、イエスが自分自身の救いの核心について示された途端、理解ができずに戸惑い、憤り、多くの弟子たちがイエスのもとから離れていったのです。しかし、そのことはイエスにとって予期されていたことでした。さらに残された十二人も、いずれはイエスの受難を前にして、散り散りに逃げ去り、たった一人で十字架の苦難を耐え抜かなければならないことをも、イエスは重々承知していたのです。

 とはいえ、弱くても、理解が到底及ばなくても、イエスに希望をかけて、従い続けたペトロをはじめ十二人の弟子たちの姿には、同じ弱い私たちにとって励まされるものがあります。多くの人々が離れ去った後、イエスはこの十二人に、悲痛で切実な言葉を投げかけます。

「あなたがたも離れていきたいか」(6:68)

 その言葉に、ペトロは高らかにこう答えるのです。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」このときのイエスも、そして今を生きる私たちも、この後ペトロと弟子たちが、イエスの受難を前に逃げ出していくことをよく知っています。しかしながら、ペトロは、それでもイエスの外に希望を置くことはできず、逃げ出した後も、イエスのもとへと帰っていくことになるのです。

 イエスの救いは、私たちがこの世で願うこと、また世に行き渡るさまざまな救いとは、大きく異なるものでしょう。それは、私たちがこの世で思い描く、豊かで、充実して、何不自由ない暮らしとは、全く異なる道を示すものだからです。それは私たちが期待をかけて、計画を立てる多くの事柄を修正し、想定外の困難をもたらし、思いがけない災難をもたらすものになるかもしれません。それは、イエスに従い続けようと決心した私たちに、なおも不測の事態や、新たな困難をもたらすことがあったとしても、全くおかしなことではありません。むしろそのただ中にこそ、イエスに従い続ける道があり、自らを犠牲として捧げ、捧げることを通してさらに喜びをもたらす信仰の希望が用意されていることもまた、多々あるのです。

 十二人の弟子たちは、まさにイエスを間近にして、その極限を体験した人たちでありました。それは私たちと同じように、弱さや理解の及ばない戸惑いに見舞われながらも、ただイエスに従うしかなかった生涯でありました。

 私たちもこの弟子たちの歩みに倣い、イエスの示されたまことの救い、命のパンをいただく救いに、希望を置き続けていくことができますように、願い求めていきたいと思います。

(by F. T. O.)

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