年間第32主日(B)
2021年11月7日 B年 年間第32主日
福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
「だれよりもたくさん」献金した貧しいやもめ。「乏しい中から自分の持っている者をすべて」捧げた貧しいやもめの心意気は謙虚でありながらも勇ましいものです。100円にも満たない、はしたがねを、おそらくひっそりと捧げた貧しいやもめは、それでも必死で神にすべてを差し出したのです。
生活費のすべてを捧げるということは、今日一日の生活を破綻させることに他なりません。無一物となり、暮らせなくなるわけです。生きるために必要な食物を買うことができなくなるのです。それでも貧しいやもめはすべてを献金します。寛大で大胆なふるまいは、まさに勇ましいものです。
つつましやかでありながらも大胆に生きるやもめの心意気は、日本的に言えば、まるで「宵越しの銭を持たない江戸っ子のようなきっぷのよさ」をおもいださせます。この貧しいやもめのように寛大に大胆に自分の持ち物を神に捧げることは、私たちにはかなり難しいことかもしれません。
しかし、そんなケチな私たちでさえも、あの貧しいやもめとまったく同じような大胆な気前よさを生きることができる場合もあります。たとえば、自分の好きな相手に対して、私たちは気前よくなれます。大好きな女性に対して数ヶ月分の給料を全部つぎ込んでまで高価な指輪を贈ってしまう男性は、毎日飲まず食わずの状態となったとしてもやせ我慢をしてまで指輪を買います。あるいは親は自分の大切な子どもの幸せのためならば、やはり全財産をつぎ込む場合があります。つまり、高額な塾の費用を何年も支払いつづけたりもするのです。
そういったことが賢明なことかどうかはさておき、相手のよろこぶ顔を見るためだけに、全財産を使い切ったとしても悔いはないという勇ましさは、愛情の極致の表明です。相手を愛していればこそ、たとえ自分がひもじくなったとしても悔いはありません。相手に対する愛情の深まりと充満が、私たちをして大胆でおもいきった行動に駆り立てます。愛情の駆り立てを経験して、すべてを献金し尽くしたやもめは、神への熱烈な愛情ゆえにおもいきった行動に踏み出せたのです。
キリストは、こういった「愛する相手に対する寛大で惜しみない気前よさ」を絶えず表明する生き方を、弟子たちに教えようとされたのでしょう。結局は、「惜しみなく相手を大切にし尽くすこと」が人間の生き方として最高の状態であるのです。
イエスのまなざしは、賽銭箱に入れられたお金の大小ではなく、それを入れる人の心に向けられています。私たちの常識では、どんな動機で献金をするかということよりも、献金額の大きさの方が重要に違いありません。しかしイエスは、「神を愛するのであれば、あなたはどうする」ということを、献金する一人一人に問うているのです。「愛する相手に対する寛大で惜しみない気前よさ」、ここに神の尺度が置かれています。それは最終的には、献金の額の問題を超えて、自分の人生を神に差し出すかどうかという決断につながってゆきます。
実際に、あの貧しいやもめは生活費の全てを捧げてしまったので、暮らしが破綻する危機に陥りました。もう彼女にとって頼みとなるものは、神しかありません。しかし、彼女にはそんな危険を冒してでも全財産を献金する動機がありました。彼女と神との間に何があったのかは分かりませんが、きっと大きく心を突き動かされる経験をしたのでしょう。彼女は、「愛しなさい」と命じられたから愛しているのではありません。神によろこばれるには、全財産を入れるしかないと学んだが故にそのようにしたわけでもありません。愛は、そんな義務や打算を超えたものです。計り知れない愛を経験すればこそ、自分の全てを賭して愛したいと熱烈に望むようになる、愛とはそういうものです。
キリストは、そのような究極の愛で、私たちを包み込もうとこの世界にやって来られました。多くの人に、ご自分の愛に気づいてほしい、その愛に突き動かされて欲しいと願いながら、賽銭箱にお金を入れる人たちを見つめていたのかもしれません。残念ながら人間は、キリストを十字架にかけて殺すまで、その愛に気づくことはありませんでした。人間にとって イエスは、良く言えば変人、悪く言えば秩序を乱す者のようにしか見えなかったのです。
しかし、そのことが逆説的に、 キリストの愛を極限まで引き出すことになりました。あの十字架上の出来事は、人間の罪のおぞましさと共に、それでもなお惜しみなく相手を大切にし尽くす神の愛、キリストの「愛する相手に対する寛大で惜しみない気前よさ」を伝えるものとなったのです。それは、人間の生き方として最高の状態であり、まさに愛情の極致です。
今日の第二朗読で読まれるヘブライ人への手紙は、このキリストを通して示された神の愛をもっと深く悟るよう私たちを招いて次のように述べています。
多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。(ヘブ9:28)
この箇所は、旧約時代の献げ物との比較において、キリストの大胆な愛情の極致を強調しています。すなわち、キリストの献げは、毎年献げられる動物の生贄とは比較にならない程卓越したものであり、ただ一度で全人類を救うに十分なものだと教えているのです。そして、神に全てを委ねたキリストを神が復活させたのは、あのやもめのように、キリストを信じる者たちをも復活させるためだとも言っています。総じてヘブライ人への手紙は、私たちのあらゆる罪の重みを全部背負うほどに、あつい 友情を実感しているキリストが確かにいてくださるという、最上の現実を示しているのです。
そして、この新約の光に照らされて、第一朗読の列王記を読むならば、私たちに求められている生き方が、一層鮮明に浮かび上がります。ここでも福音書で描かれたやもめと同じくらい貧しいやもめが登場します。彼女は、自分と息子のための一食分にも満たない小麦粉と油しか持っていません。預言者エリヤは、その人にパン菓子を要求しました。それは息子の命も含めて全てを捧げるに等しい要求でした。当然、そんな要求を簡単に呑むわけにはいきません。やもめは必死にエリヤに事情を説明します。そこでエリヤは神の言葉を告げながら、次のようにはっきりと宣言します。
恐れてはならない。……なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。(列上17:14)
この言葉を聞いて、やもめは何を思ったのでしょうか。「まさか主は、私に目を留めて下さり、預言者を派遣して下さったのでしょうか……。あるいは、この人は詐欺師なのでしょうか」。 きっと色々な葛藤があったことでしょう。しかし、彼女はエリヤの言葉をはぐらかすことなく、正面から聞きました。それが真実を見極め、預言者への尊敬と愛情を高めることへとつながったのでしょう。その結果、彼女の内には、エリヤの呼びかけを余すことなく受け容れて徹底的に従う勇気が沸き起こりました。このやもめの忠実さから、私たちは、愛情をいだいている者が、どれほどおもい切りよく生きることができるかを学びます。
キリストが、今も自分の全てを与え尽くすほどに、惜しみなく私たち一人一人を愛して下さっていることに気づく人は幸いです。こんな私たちではありますが、その私たちを友と見なし、私たちのわずかな祈りに対してさえ友情を感じて下さるキリストは、今も私たちの傍らに佇み、共に歩んで下さっています。その愛情による駆り立てを経験すればこそ、私たちも聖書に登場したあの二人のやもめのように神の言葉を信じて、自分の全てをおもい切りよく神に委ねることもできるのです。
そんな愛情の極致を生きることができたならば、どれほど幸せでしょうか。格差の広がる現代社会にあって、自分の損得にばかり目が行きがちになることは、金銭的に苦しい時には避け難いことです。しかしながら、そのような損得の世界でいわゆる善業を積み重ねる だけであれば、それはイエスが批判した律法学者やファリサイ派の人々たちと全く同じ生き方になってしまいます。
結局、「あなたの命は何のためのものなのですか。自分のためなのですか。それとも誰かのためのものなのですか。」という、命の目的が問われています。どうか私たちの信仰が、「愛する相手に対する寛大で惜しみない気前よさ」で貫かれますように。そして、損得では測ることのできない愛のよろこびが、多くの人を巻き込んで、この世界を神のみ旨に適うものへと変えてゆきますように。現代世界の先行きに警鐘を鳴らしている教皇フランシスコと心を合わせながら、共に歩む教会を目指しましょう。
(by A.N.A. & F. S.T.)
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