待降節第1主日(C)

2021年11月28日 C年   待降節第1主日

福音朗読 ルカによる福音書 21章25~28、34~36節

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 

 いよいよ2021年の待降節第一主日を迎えました。待降節はクリスマスに向けて、希望が膨らみ、心に光が灯されるような気持ちを起こさせます。

 私はキリスト者となるだいぶ以前から、このクリスマスに向かう季節が好きでした。秋が深まり、木々は葉を落とし、木枯らしの舞う季節。日暮れは近くなり、夕焼けは燃えるような茜色を残して、あっという間に去っていく。もの悲しく、うら寂しい季節にあって、ある日、枯れ葉の街路樹に、きらめくようなイルミネーションが灯り出す。たちまち街の明かりが何ともいえないぬくもりを放って、胸に迫ってくる。自然が日に日に生気を失い、寂しくなる中で、街の光が、人のぬくもりが、こんなにも温かく感じられるようになるなんて、不思議だなあと思いながら心躍らせておりました。そして、実際、真冬の荒涼とした季節の極致にクリスマスを迎え、クリスマスケーキとサンタクロースのプレゼントに、心も体も、心底温められるのでした。

 このような感受性は、キリスト者となり、救い主の到来を待つ、本来のクリスマスの受け止め方を知ってからも、あながち本質からかけ離れたものではなかったかなと思っています。クリスマスの日、キリストはまさに荒涼とした寒空の下で、ご生誕にふさわしい宿もなく、貧しくお生まれになったのです。それは見るものすべてが寂しく枯れ果て、凍えるような世界であったことでしょう。しかし、そのようなただ中であったからこそ、神の子が世に与えられた光は、まばゆいばかりに輝き、見る人の胸に決して消えない喜びを刻み込んだのです。それは当時、ごく少数の人々に与えられた恵みでありましたが、やがて、その光は世界中の人々を照らす光へと伝播していきました。

 さて待降節の主題は、救い主の訪れを待ち望むことです。そのことから、福音箇所には終末のときの苦しみや恐ろしさを描く場面が多く選ばれています。救い主を迎える喜びや恵みを期待する時期に、一見違和感を持たれるところでもありますが、しかし、私たちキリスト者の救いについて考えてみれば、それは自然と受け止められるものではないかと思います。なぜならば、私たちの救いは、闇を通してこそ与えられるものだからであり、だからこそキリストは、私たちのために貧しく、苦しみに満ちた闇のただ中に、生まれ出て下さったのです。そして、私たちの苦しみ、闇の現実をともに味わい尽くして下さることを通して、闇を抱えるこの世界の全てに、救いをもたらして下さったのです。

闇の中を歩む民は大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(イザ9:1)

 救い主の訪れを描くイザヤ書の言葉ですがは、まさにこの世界の闇の深みと、光が与えられた喜びとがを、くっきりとしたコントラストで浮き彫りにされていします。それは今日の福音箇所の話とも共通するメッセージです。終末のとき、数々の苦難が人類を襲い、その不安と恐ろしさのただ中において、不意に、人の子が大いなる栄光と力を帯びてやってくるというのです。

このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。(ルカ21:28)

 しかし、今日の話を、ただ後に訪れる救いのために耐え抜くようにという教訓話として受け取るならば、いささか苦しい忍耐を強いる話しにもなりかねません。というのも、この世界には、決して逃れ得ない不条理な苦しみに見舞われることも、数多くあるからです。そのことを、後の世での解放に期待して耐え抜くようにというだけでは、あまりにも目の前にある現実が、耐えがたい苦しみだけになってしまいます。

 ところが、もしこの苦しみから、闇の現実から、神の確かな光を受け止めるための恵みを引き出せるのだとしたら、それらの現実は、私たちにとって全く違った意味を帯びてくるようになると思うのです。闇の体験を通してこそ、光をくっきりと見据え、それを自らのうちに迎え入れることができる。貧しさの体験こそが、本当の豊かさへと心を向けさせる。悲しみの体験が、真実の交わり、ぬくもりへの望みを呼び起こす。そのように捉えられることで、苦難に満ちた数々の現実から、確かに恵みが引き出されることもあるのです。

 実際、イエスが貧しい人々、悲しむ人々、飢え渇く人々と率先して交わり、救いを宣言されたのはそのことに他なりません。その人達こそ、神をおいて他に頼るものはなく、ゆえにキリストの救いを真っ先に受け止めることができたからです。彼らの闇の現実こそが、他でもない真実の光を受け止めるための力を養ってくれたのです。

 そのことを考えたとき、イエスが人となって世に来て下さった意味が、より浮き彫りにされるのではないかと思います。本来、全てに満たされ、苦しみ悩む必要のない神が、苦しみ、あえぐ地上の私たちに心動かされ、私たちと同じ者となって下さったのです。そして私たちの苦しみ、悩みの全てを共にされて、その極限において、救いを現して下さいました。

 通常、私たちが思い描く救いは、何とか悩みが断ち切られ、闇が取り払われ、全ての悪が克服された先にある、完全な満たしであることでしょう。ところが、イエスは私たちの悪しき現実の全てを担われることを通して、そのただ中に救いを現して下さったのです。それは、決して自らの力では悪を乗り越えることのできない私たちのために、そのような私たちの全てを救い上げるために、現して下さった救いでありました。

 そのことによって、私たちが目指す希望や幸福には、根本的な変化がもたらされたのです。それは、私たちが通常、忌むべき苦難、不幸、あらゆる闇の出来事からは、世にも不思議な恵みが引き出され、逆に、私たちの誰しもが羨むような幸福や充実からはたちまち魅力が失われていくという、社会を揺るがす大変革なのです。

 そのような大変革は、神である御子が、人となって来て下さったことによって実現されたことです。すなわち、究極の幸福であり、充実である方が、最も貧しく、弱い人間となって世に来て下さったことによって、世に現された出来事です。そのことによって私たちのありのままの現実があがなわれ、闇の深みにまで及ぶ救いが現されたのです。

 ますます寂しさを増し、孤独を深める季節にあって、私たちのただ中におられるイエスを、一心に追い求めていくことができますように、寒々しい馬小屋でお生まれになったイエス様の誕生を、確かな光として、お迎えしていくことができますように、そして、私たちに与えられた光を、苦しむ人々の心に届けていくことができますように、願い求めていきたいと思います。

(by, F.T.O.)

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