年間第7主日(C)

2022年2月20日  C年 年間第7主日

第1朗読 サムエル上26・2、7-9、12-13、22-23
第2朗読 一コリント15・45-49
福音朗読 ルカによる福音書 6章27~38節

 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 皆さんは、日本社会の中でキリスト者として生きる時、どのような場面にその信仰が最も輝くと思いますか。あるいは、私たちのあり方のどのような部分が、特定の宗教を持たない周りの人たちに好意的な印象を与えると思いますか。おそらくそれは、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」という御言葉を生きる時ではないでしょうか。普通の社会常識や人間的な発想では到底思いつかないような「憐れみ深さ」が、その人の存在から湧き出て来る時、多くの人は、その人の言動に不思議な魅力を感じるのだろうと思います。

 とはいえ、この御父の憐れみ深さを生きることの難しさは、言うまでもないことです。今日の福音をゆっくりと読むならば、私たちの善行がいかに自己中心的で、神の愛から程遠いものであるかを思い知ることになります。イエスの前では、私たちの善い行いのほとんどが罪人の行いと同じなのです。そう考えると、キリスト者としての真価が問われるのは、やはり今日の福音で二度も繰り返し述べられる「敵を愛せよ」という命令をどこまで自分の生き方として実行できるか、ということになるでしょう。

 今日の第一朗読では、ダビデがまさにその模範を示しています。サウル王は、妬みのあまりダビデを殺そうとしましたが、ダビデはそのサウルを殺すことはせず、危険を冒してでも和解するための道筋を模索します。ダビデがそこまでサウルに寛大であった理由はただ一つ、サウルもまた、主から油を注がれた、選ばれし者だったからです。

 ここで大切なことは、初めから完全に相手をゆるす必要はないということです。ダビデもまた、この時にはサウルを殺さないというだけで精一杯でした。しかし、主の眼差しだけを理由にして、自分を殺そうとする相手を殺さなかったのですから、それは人間の限界を越えた行為であったと言ってよいでしょう。こういった、ほんの少しであっても御父の心を思い起こして、自分の器を広げる経験の積み重ねが、やがては無条件のゆるしへとつながってゆくのです。自分にとってどれほど有害な人間であっても、神がその人を愛して下さっていることを思い起こすならば、初めのうちはその人をゆるすとまではいかなくても、それでもその人のありのままを認めていく道は開かれていきます。

 イエスは、このような憐れみ深さへと私たちが成長していくことを強く求めています。それは、その憐れみ深さが、最終的には私たちの裁きへと直結するからです。この裁きについて、私たちはしばしば次のような疑問を抱きます。「御父が憐れみ深いならば、なぜ裁きがあるのだろうか。憐れみ深いはずなのに、なぜゆるされない罪といった問題があるのだろうか」と。今日の福音は、この謎に対してはっきりと教えています。

 赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

 御父は、初めから最後まで憐れみ深いままなのです。その姿は、十字架につけられて尚、自分を十字架につけた人たちをゆるそうとするキリストの姿そのものだろうと思います。痛みを味わい、血を流し、死の恐怖に晒されながらも、神は私たちをありのままに受け入れようとなさるのです。しかし、私たちがその愛を拒みます。その愛が憐れみ深いが故に、私たちは自分で自分がゆるせなくなるのです。裁きとは、神の側から下されるものではなく、神の憐れみ深さそのものが、私たちにとって裁きとして実感されるところから生じます。

 もっと分かりやすく言ってみます。自分を心から愛してくれる方を裏切り続けた後に、それでも変わらぬ愛で自分を包み込もうとして下さるその方と再会したとするならば、私たちはどうしますか。おそらく、いたたまれない気持ちになって「来ないで欲しい」と言ってしまうのではないでしょうか。この「私はあなたに相応しくない」という気持ちが自分に下す裁きとなる時、場合によっては神に背を向けて生きざるを得ない地獄という場を生み出すことにつながるのです。このように考えるならば、煉獄とは、神の愛に相応しくないことを実感しながらも、それでも神に抱かれようとする時に生じる、焼けるような魂の痛みであると言えます。また天国とは、全くもって神に相応しくない自分であることを認めながらも、その神の愛に信頼して、自分を裁くことをやめて、素直に神に抱かれるがままになった人の喜びであると言ってよいでしょう。

 「いったいどうしてこの人は、こんなに嫌な人なのだろう」と思う時、その人を自分にとっての「罪人」として裁くことは簡単です。しかし、そんな時ふと気づくことがあります。「あれ、私はどうしてこんなにも、あの人のああいう部分に過剰反応して、嫌だと思うのだろう」と。そこには、自分が自分に下している裁きがあるのかもしれません。あるいは、過去の苦い経験や親の教育から、狭い枠の中で生きるようになってしまった自分の無意識レベルでの不満を、知らず知らずのうちに他者に投影してしまっていることもあるでしょう。ファリサイ派が人々を裁くのも、実はこのような心理が働いてのことなのかもしれません。

 イエスは、そんな私たちの囚われを打ち破るためにやって来られました。罪人であってはいけないと思う私たちに、罪人のゆるしを生きるという新しい道を示してくださいました。「神が私をゆるしてくれているから、私もあなたのしたことについて、もうとやかく言わないよ。神が私のありのままを受け入れてくださっているから、私もあなたの嫌な部分について、しつこく言わないようにするね」。まずは、そういう小さいところから始めていきましょう。そうやって修練を積むならば、私たちは知らず知らずのうちに、キリストの愛を宣べ伝える神の似姿へと変容していくのです。

(by, F. S. T.)

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