復活節第4主日(C)

2022年5月8日 復活節第4主日(C)

第1朗読 使徒言行録 13章14、43~52節

第2朗読 ヨハネの黙示録 7章9、14b~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 10章27~30節

  わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。

 今日の朗読箇所は非常に短いながらも、ヨハネ福音書が私たちに伝えようとするメッセージの核心が示されています。それは、父と子が一つであり、また子を信じることによって私たちも父と子の永遠の命の交わりに招き入れられる、ということです。しかし、それはある意味で濃縮されたエッセンスのようなものなので、それを聞いただけでは、私たち一人ひとりの人生に、そのことがどう関わるのか、今ひとつピンとこないかもしれません。しかし、私たちが気づこうと気づくまいと、そのエッセンスは、それぞれの背景や環境によって希釈され、生活の具体的な状況に浸透しています。それでは、2千年前のユダヤ人たちは、このイエスの発言をどのような状況で聞いたのでしょうか。

 というわけで、今日の朗読箇所の少し前に目をやると、これが「神殿奉献記念祭」が行われる冬の出来事であったと分かります(cf.ヨハ10・22)。その祭りは、紀元前2世紀にユダヤに圧政を敷いたセレウコス朝の王、アンティオコス・エピファネスが汚したエルサレム神殿を、マタティアの息子ユダ・マカバイが取り戻して浄め、再び奉献したこと(cf.一マカ4・36-59)を記念するものです。

 イエスの時代になると、ユダヤの地の支配者はローマ帝国に替わり、その下では、ユダヤ人にかなりの宗教的・政治的な自治が認められていました。それでも古くからバビロニアやエジプトなど、大国の脅威にさらされてきた歴史を持つユダヤ人たちにとって、外国からの解放は悲願だったのでしょう。当時の民衆の間には、栄光に輝く理想の王を待ち望む、メシア待望が広まっていましたが、それは多分に他国の支配からイスラエルを解放する政治的・軍事的な指導者として理解されていました。この神殿奉献記念祭は、一時的とは言え、イスラエルが外国勢力を退けたことを祝うものでしたから、この時期、民族の誇りと解放への望みがないまぜになり、緊張感や切迫感が一層高まっていたことでしょう。

 そのような折りに、ユダヤ人たちは神殿の境内を歩いていたイエスを取り囲み、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(ヨハ10・24)と詰め寄りました。そこには、いつまでも彼らが期待するような意味でのメシアとして立ち上がらないイエスに、彼らが苛立っている様子が見え隠れします。そんな彼らに、イエスは「私は言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない」(ヨハ10・25-26)と答えられ、彼らの思い違いを正そうとされます。

 さらに、イエスは羊と羊飼いのイメージを用いて、救い主と人々との関係を語られます。非力な羊に声を掛け、牧草地に連れて行き、囲いに入っていない羊をも導き、襲い来る狼から群れを守り、そのために自ら命を捨てる善き羊飼い、これがメシアの本当の姿です。そしてイエスは、十字架上の死と復活によって、そのことを体現してくださいました。人々が望んだ政治的、軍事的な解放は、やがて過ぎ去る地上の支配しかもたらしません。事実、バビロニアも、古代エジプトも、セレウコス朝も、ローマ帝国も、みな過ぎ去りました。しかし、イエスが成し遂げられた救いの業は、決して過ぎ去ることがない、罪からの解放と永遠の命をもたらしたのです。

 キリスト者である私たちは、そのことを知っています。そして私たちは、み言葉を聞き、教会が行う秘跡や愛の業を通して、イエスのみ業を目撃しています。それなのに私たちは、2千年前のユダヤ人と同様に、非常にしばしば、目の前の心配事や、切実な思いなど、やがて過ぎ去るものに心を囚われ、自分たちの願いを叶えてくれないイエスに苛立ち、父のみ心がどこにあるのか、そして父が派遣された救い主がどんな方であるのかを見失ってしまいます。特に、今日の世界の現状を目の当たりにして、世界平和と感染症からの解放への願いは、私たちの心の多くの部分を占めていることでしょう。それは実にもっともなことであり、当然ながら私自身、その例外ではありません。しかし、このように緊張感や切迫感が高まっている今だからこそ、私たちは自分が囚われている思いを手放して、父のみ心を探し求めなくてはならないでしょう。

 そのために最も良い方法は、父との愛の交わりのうちにとどまり続け、生涯を通じてひたすら父のみ心を行った御子の姿を見つめることです。事実、イエスご自身、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ14・9)と述べられます。そのイエスは、人々の前で様々なしるしを行いましたが、それは2千年前のイスラエルという歴史の具体的な状況の中で行われ、その業は真っ先に痛み苦しんでいる人々に向けられました。ですから私たちも、それぞれの具体的な状況の中で、誰かと苦しみを担い合うよう招かれているのは、疑い得ないことです。

 しかし、イエスが成し遂げられた救いの業が、当時のイスラエルの人々のためだけのものではなく、あらゆる時代のすべての国の人々のためのものであることも、私たちは忘れてはなりません。現にあらゆる世代の人々が、時間と空間を越えて福音の核心を受け継いできてくれたお陰で、私たちは、救いの歴史に連なりながら、今、この時を生きています。

 主のために、主と共に働くなら、私たちの行いは必ず豊かに実を結び、その実りは他の誰かを生かします。しかし、それが実現するのは、私たちが死んだ後のことになるかもしれません。また、主の声に聴き従うなら、私たちは必ず緑の牧場に導かれますが、そこは私たち自身の望みとは異なる場所かもしれません。それは私たちにとってはサプライズですが、私たちがそのような主のいたずら心に自分自身を明け渡すとき、主は私たちのご自身への信頼を、大いに喜んでくださいます。そして、私たちの望みよりも、はるかに素晴らしい善をそこから引き出して、救いの業の完成のために役立ててくださいます。

 そのように主のみ心に開かれた生き方、主のみ声に聴き従う生き方によって、すでに、すべてのものより偉大な父と子の交わりへの参与が始まっています。それは、たとえ痛みや苦しみの現実があろうとも、日々の生活に浸透する福音の核心にしっかりと呼応して生きること、永遠なる方に触れられて、今、この時を希望と喜びのうちに生きることに他なりません。私たちが主に信頼して自分自身を明け渡すことができますように。そして、あらゆる時代の神の民と共に、永遠の命の交わりに生かされて、今、この時、その交わりに人々を招くことができますように。

(by F.N.K)

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