復活節第6主日(C)

2022年5月22日 復活節第6主日(C)

第1朗読 使徒言行録 15章1~2、22~29節

第2朗読 ヨハネの黙示録 21章10~14、22~23節

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章23~29節

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

 復活節第6主日を迎えました。復活節もいよいよ終盤に差しかかり、来週は主の昇天の祭日です。復活されたキリストが40日間、弟子たちの前に現れた後、天に上げられた出来事を記念する日です。

 十字架上で亡くなられたイエスは、私たちを絶望のままに終わらせるのではなく、復活して弟子たちの前に現れて下さいました。その体には、十字架上で受けた傷は生々しく残されていながらも、神の栄光に満ち溢れていました。その姿を目の当たりした弟子たちは、イエスの救いが十字架上で惨めに挫折したのではなく、そこで人間の全てに及ぶ救いがもたらされたのだと悟ったのでした。十字架上の悲惨な死が、実は私たちへの限りない愛ゆえの死であり、そのときすでに神の救いが余すところなく現されていたのだと理解したのです。私たちが復活節の間、思い巡らしてきた復活のキリストは、そのことを私たちに悟らせるために、十分すぎるほどの証しでした。

 さらにイエスは、ご自身が世を離れた後にも、私たちが神と出会い続けられるように、聖霊が送られることを約束して下さいました。それが今日の箇所の話です。

聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 私たちが生きるこの地上では、もはやイエスの姿を直接見たり、声を聞いたりすることはできませんが、それと同じくらいに、聖霊によって神と出会い、導かれる恵みが与えられているのです。

 たとえば、自分の考えに縛られ、思い通りにならないことを嘆いているときに、ふとそんな自分自身には及びもつかないような閃きや、導きが与えられることがあります。そのことによって、今まで絶対に手放せないと思っていたこだわりから不思議と解放され、大きな導きに任せている自分に気づかされることがあります。また偶然と思われる出来事の数々が、後になってみると全てが絶妙なタイミングで引き起こされ、時宜に適った実りをもたらしてくれたと実感させられることがあります。そのことによって今まで行き当たりばったりに右往左往してきたと思っていた歩みが、実は全てが神に向かって導かれてきた道だったのだと気づかされるのです。

 そのように私たちの人生の歩みには、聖霊の恵みが絶えず注がれ、そのことは信仰によってはっきりと受け止めることができます。なぜならそのお導きが確かなものであることを、イエスの姿、言葉、行動を思い起こすことによって、悟ることができるからです。あるいは、その導きが神を愛し、イエスを愛し、全ての人と愛し合うことへと促されていくものならば、確かなものであると理解することができます。他でもないイエスこそが、それを何よりも望まれて、生き抜いた方だからです。その愛は、自分を利するための愛ではなく、全ての人の幸福を求める愛であり、しかも自分の利益にはならなくても、必ず自分自身に、真の幸福として返って来るものとなるでしょう。

 そのように聖霊の導きに身を任せることのできた人は、個人の小さな欲求に生きるのではなく、絶えず神のみ心に聞き従い、その望みに生きる者となっていきます。それは決してこの地上の苦しみや葛藤、過ちから完全に切り離されることを意味するものではありません。依然、悩み、つまづき、苦しむことも経験し続けるでしょう。もしかしたら神を知らなかったときよりも、さらに苦しみが増し加わることもあるかもしれません。神の導きは、必ずしもこの地上での安楽や充足を約束してくれるものではないからです。

 しかし、たとえこの地上でさらなる受難が待ち受けていようとも、それでも神のみ旨を聞き、その導きに委ねることができた人は最上の幸せにある人なのです。なぜなら私たちの誰しもが望みながらも、決してこの世では満たされ得ない喜びを、その人はすでに与えられているからです。それは私たちがこの地上で宿命づけられている死の現実、苦しむ現実、不完全で過ちに満ちた現実を乗り越えた世界が、確かにあるのだという希望です。

 そのことはまさにイエスの十字架の死と復活によってはっきりと示されたことです。イエスが神でありながら、弱く貧しい人間の体を受け、人間の苦しみの極限まで担い、そこまでして私たちへの愛を貫くことによって、現して下さったことです。そのことによって私たちの死にゆく体、全てのものが滅びゆく世界を越えた、永遠の御国があることがはっきりと示されたのです。さらに地上のイエス亡き後も、その後の世界にずっと神の真理が送られ続けることをも約束して下さったのです。

 イエスはこの話を、究極の苦しみである受難の前夜に弟子たちに語られました。それはイエスが「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」と言われている通りです。今の世界もまた、争いが繰り返され、絶望と苦しみのうちにある状況が広がっています。しかし、いついかなるときにも、神は共にいて下さり、聖霊が注がれ、私たちが最悪の事態からをも最善の導きへと踏み出していけるよう願われています。

 そのことに信頼をもって歩み続けてくことができますように、いついかなるときにもイエスが残して下さった平和を、心に持ち続けていくことができますように、願い求めたいと思います。

(by, F.T.O)

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