受難の主日(C)

2022年4月10日  受難の主日(枝の主日)、聖週間はじまる

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

福音朗読 ルカによる福音書 22章14~23章56節

※朗読箇所が長いので、聖書本文は、下のURLからアクセスしてください。

https://pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_passion_sun.php#gospel


 イエスの十字架において私たちが見つめるべきものは何でしょうか。そこには嘆き悲しむ婦人たち、祭司長、犯罪人たちがいます。それぞれが、自分の置かれた所からイエスを眺めています。「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたイエス…。私たちにとって「自分の十字架」とは何でしょうか。それは、自分で決めるものではありません。

 キレネ人シモンは、全く予期せぬ形でイエスの十字架を担わされました(マルコ15・21参照)。彼は、嫌々ながらも十字架を背負って、イエスの後ろを歩みます。十字架を背負う人間の姿とはそのようなものなのかもしれません。シモンと同じように、その時の私たちには分からない形で背負わされるもの、それがまさに十字架なのでしょう。しかし、困難や痛みの多い私たちの体験が、そのまま十字架になるのではありません。なぜなら、まずイエスが先頭に立って、私たちの十字架を担ってくださっているからです。このイエスの後ろから共に十字架を担って歩む時、私たちもまた、よろめき倒れながらであっても、イエスの十字架を担わせて頂くことになるのです。

 その歩みは、期せずして人々を変えます。イエスの十字架の両脇には、共に十字架につけられた二人の強盗がいました。彼らは共に十字架につけられながらも、互いに正反対の立場を取っています。彼らがつけられている十字架は、自らの罪の結果です。しかし、その中で一人の犯罪人はイエスと出会いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。なんと衝撃的な言葉でしょうか。彼らは、イエスが今どのような痛みと苦しみの中にあるかを誰よりもよく知っていたはずです。その痛みと絶望の最中においても、イエスは祈っていたのです。自分を正当化しようとする思いが渦巻く場において、自分を十字架につける人々のためにとりなすイエスの姿…。それは、多くの人々の心を打ち砕きました。このイエスの祈りによって人は新たにされます。その中で私たちは、神の独り子が、十字架の苦しみと死を引き受けてくださったことの深い意味を知らされるのです。

 しかし、同じ体験をしているもう一人の犯罪人は言っています。「お前はメシアではないか。それなら先ず自分自身を救ってみろ。そしたら信じてやる」と。イエスをあざ笑い、侮辱する人々は、「まず自分自身を救え」と言います。それから、世の苦しんでいる人々を救えばよいではないかと。十字架など何の役にも立たない、さっさとそこから降りて来て、もっと効果ある別の方法を考えるべきだと。しかし、共に十字架につけられたもう一人の犯罪人は、彼をたしなめ、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は、何も悪いことをしていない」と言っています。彼は、十字架上で祈るイエスの姿を見て変えられたのです。根本的なところで変えられたのです。そして、イエスに願っています。「主イエスよ、あなたの御国においでになるとき、どうかわたしを思い出してください」と。これが、この世における彼の最期の言葉であり願いでした。

 楽園がどのようなものなのか、そんなことはもはや問題ではないのです。私たちはイエスの十字架をどのように受け止めているでしょうか。十字架の周りにいる様々な人々を通して、私たちは大切な事を学びます。彼らは、イエスの苦しみと悲しみに対して、何を思い 何を見つめているのでしょう。イエスが共におられる、それだけで十分なのです。これに対するイエスの答えは、「あなたは今日わたしと共に楽園にいる」という約束でした。そこに本当の救いがあります。

 第二朗読は、「キリスト賛歌」と呼ばれる有名な箇所です。そこでパウロは言っています。「キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ2・7)。これは、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶイエスの言葉と同じです。神は神でありながら、痛み苦しみ、絶望している人々の中にご自分を置かれたということです。私たちの叫び、弱さをこの方は知っています。その上で、イエスは十字架において死んで下さったのです。イザヤ書で預言されている事です。十字架上の死は、旧約の世界では神からも人からも見捨てられた死、恥と屈辱に満ちた死を意味します。そこまで神は降りてこられたのです。私たちが忘れていたのは、この神の愛だったのです。

 今日から始まる聖週間は、イエスの苦しみと悲しみを通して表された神の愛を黙想する時です。第二朗読で語られる、「へりくだられたキリストの姿」を黙想し、神の愛への返答を私たちも自分なりに見出すことができますように…。そして、私たちのために御父の御前で祈り続けるイエスの姿に出会うことができますように…。

(by the Spirit of EMET)

EMET

Ecclesial Meeting that Energizes Today's church

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