復活の主日

2022年4月17日  復活の主日

第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節

第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ぺトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 主のご復活、まことにおめでとうございます。激動の四旬節を歩み続けてきましたが、こうして2022年の復活祭を迎えることができました。思い返せば、四旬節の始まりはコロナの感染拡大の収まらぬ状況下にあって、さらにロシアのウクライナ侵攻が勃発し、苦しみに苦しみを重ねるような時でありました。依然として暗闇から抜け出せない世界情勢が続いていますが、しかしそのような苦しむ世界の上にも春は確実にやってきて、主のご復活をお祝いする日を迎えました。

 主のご復活を記念する今日のヨハネ福音書の箇所は、マグダラのマリアと弟子たちが、空になったキリストの墓に遭遇する場面です。実にキリストの復活は、この空の墓から始まっているのです。納められているはずの主の体がどこにも見当たらず、そこには主の体を覆っていた亜麻布、頭を包んでいた覆いだけが置かれていたのです。それをはっきりと目撃したシモン・ペトロともう一人の弟子は、「見て、信じた」(8節)とあります。しかし、そのすぐ後には、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(9節)と述べられているので、彼らが即座にイエスの復活を確信したということではなさそうです。では彼らは、何を信じたというのでしょうか。

 それは人間として生き、人間の苦しみの極限まで味わい尽くして死なれたイエスが、墓に葬られたはずなのに、忽然と消えてなくなってしまった、その驚くべき出来事を事実として信じたということなのかもしれません。それは、少し前までイエスの身近にいて、その息遣いや温もりまで体感していた弟子たちにとっては、あまりにも衝撃的なことだったでしょう。そしてまた、何よりの拠りどころであった主が取り去られたということは、全てが失われた空虚感を伴うものだったと思われます。

 しかしこの全てが奪われたかにみえた空しさの極致こそ、主の復活が始まる原点でありました。弟子たちがこの出来事と、生前のイエスが言っていたこと――「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8:31)――とを結びつけるのは、さして時間の要するものではありませんでした。イエスがすぐに弟子たちの間に訪れて下さったからです。

 「開かれたキリストの墓 よみがえられた主の栄光 あかしする神の使いと 残された主の衣服を」(『復活の続唱』典礼聖歌351番)

 主のご復活は開かれたキリストの墓から始まりました。空の墓の空虚の極みに主の栄光が現され、残された主の衣服のからわらで、神の使いによって復活の主が指し示されたのです。私たちの主は、神でありながら滅びゆく人間の行き先である墓にまで下り、そのことによって人間の闇の深みにまで及ぶ救いをもたらして下さったのです。

 実に私たちの世界は苦しみに満ち、限界に縛られ、その究極に死が立ちふさがっています。私たちにとってそれらは忌むべきことで、何とか断ち切りたいと願うもので、それを克服することは、人類史上、何度も試みられてきたことでした。古今東西の権力者は、この死を克服して、永遠に若く、健康な命が続くことを求めましたが、いまだかつてそれを得た者はいません。また死の闇とその先にある世界についてさまざまな考察を試みた人たちもいましたが、それを完全に把握できたという人もいません。

 そういう意味では、私たちの神の救いも、そのような人間の悲願を即座に解決するものではないかもしれません。私たちの神は、依然、この世界の悪の現実に直接手を下し、立ちどころに滅ぼすことはしませんし、この世を生きる私たちが、一足飛びに身も心も神の世界に迎えられることありません。この世界の悲喜こもごもの現実に右往左往しながら、真の幸いを求めて歩み続けているのが、私たちの実状です。

 ところが、たとえこの世界の悪が立ちどころに滅ぼされることはなくても、私たちの苦しみや死の現実が即座になくなるわけではなくても、その苦しみを通してからさえ、最善の恵みを引き出される神の愛と、私たちは出会うこととなったのです。それが主のご復活です。つまり、私たちの神は、この世界が決して悪のままで終わることはないこと、苦しみが苦しみのままであることはないことに信頼して、最愛の子を悪と苦しみのただ中にまで送り出して下さったのです。苦しむことも、悪に打ちのめされることもない神が、その闇の奥深くまで共に味わって下さり、死ぬことさえ引き受けられて、墓を開いて復活して下さったのです。そのことによって、私たちのどのような闇の深みにも、この地上のどのような闇の現実にも、光がもたらされ、救いに与る希望が与えられたのです。

 全てが失われたかに見えた空しさの極致に、主イエスの復活が現されました。だからこそ、ペトロは自分の闇の深みにまで救いが与えられたことを確信して、キリストの復活を高らかと宣言できたのだと思います。私たちに求められていることは、すでに世に与えられた神の救いを、確かなものとして人々に伝え、また主が行った通りに行動していくことなのだと思います。

 2022年の混迷を極める世界に向けて、私たちに与えられた確かな救いを証ししていくことができますように、願い求めていきたいと思います。

(by, F.T.O)

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